夕飯を作りたくない日には、二種類ある。
予定があって作る時間がない日は、堂々と作らない。
時間はあるのに気分が乗らない日は、少しうしろめたい。
その日は、堂々と作らなくていい日だった。
夕方から娘の習い事がある。
送迎をして帰るころには夕飯どきになる。
今日はお惣菜にしようと、午前中のうちにスーパーへ行った。
自動ドアを抜けると、ひんやりとした空気が汗ばんだ首すじに当たった。昨日が特売日だったからか、店内は静かだった。買い物かごを手に、店の一番奥のお惣菜売り場へ向かう。
午前中のお惣菜売り場はまだ準備の途中らしく、品物が出揃っていなかった。来るタイミングを間違えた。
出直そうかと思ったが、夕方の混んだ売り場を想像してやめた。
並んでいる中から、鶏の唐揚げを一パック持ち上げる。蓋には、ブランド鶏の名前が書かれた金色のシールが貼られている。ここの唐揚げは、確かにおいしい。けれど、家族三人で食べるには一パックでは足りない。もう一パック必要だ。それに、副菜もほしい。
頭の中で、唐揚げと副菜を食卓に並べてみた。値札の数字を足し算する。唐揚げを棚に戻した。
その隣に並ぶコロッケや天ぷらも見る。食卓に並べたところを思い浮かべる。どれもなんだか頼りない。やっぱり、自分で作ろう。今日はお惣菜にすると決めて来たのに、空のかごを持ってお惣菜売り場を離れた。
店内をぶらぶらしながら、私はスーパーにあるものを片っ端から食べた。
「夏カレー」と書かれたポスターの下に、カレールーの箱がずらりと並んでいた。熱いルーをスプーンですくって口に入れる。スパイスの香りが鼻に抜け、せっかく引いた汗がまたにじんでくる。今日は違う。
次にケチャップの赤いボトルが目に入る。ふわふわの卵と濃いめのケチャップライスを、大きくすくって頬張ってみる。娘は喜びそうだ。でも、今日はこれじゃない。
乾麺売り場では、そうめんの隣にめんつゆのボトルが並んでいた。冷たい麺をつゆにくぐらせ、つるつると喉に通してみる。これは近い。
でも。何かが違う。
かごの中は、まだ空っぽのままだった。
売り場を何周かして、アイスの冷凍ケースまで来た。冷凍ケースに、いつもは見かけないメロンシャーベットが並んでいた。メロンの形をした容器の蓋をパカリと開け、表面をスプーンで薄く削る。ひと口食べる。冷たい。少し甘い中に、メロンの青くささ。口の中がさっぱりする。これだ、と思った。メロンシャーベットを三つかごに入れ、魚売り場へ戻った。
家に帰り、買ってきたあじをパックから取り出した。銀色の皮が、キッチンの照明をちかちかと返している。もうまな板の上なのに、まだ海のものみたいだった。
水気を拭き、小麦粉を薄くまぶす。余分な粉をぱたぱたとはたいて油へ入れると、あじの輪郭に沿って細かい泡が一斉にわき立つ。たちまち真っ白な泡に囲まれ、あじの姿が見えなくなった。
そのあいだに野菜を切る。きゅうりに包丁を入れると、青い匂いが立ちのぼり、そのあとを、さっきのメロンシャーベットがついてきた。玉ねぎも、にんじんも、きゅうりも、これでもかというくらいたっぷりと切った。
あじの様子を気にしながら、酢と砂糖としょうゆを合わせて味を見る。少し甘い。あとから酸味が追いついてきて、口の中をさっぱりさせる。
いい感じ、と思ったところで、泡の中からきつね色になったあじを引き上げる。油の音が消えないうちに保存容器に入れた南蛮酢へ移すと、油の中であれほど騒いでいたあじが、急にしゅんとおとなしくなった。
その上に玉ねぎ、にんじん、きゅうりをどっさりとのせ、残った南蛮酢を回しかける。白と橙と緑の山が少し沈み、あじの姿はまた見えなくなった。
盛り上がった野菜を蓋でぎゅっと押さえ、どうにか閉めた。透明な蓋に押し付けられた野菜たちが、じっとこちらを見ていた。
冷蔵庫へ入れた。
扉を閉め、冷蔵庫に背中を預けた。シンクには粉の残ったバットと包丁とまな板。コンロには油の鍋。しばらく、その全部を眺めていた。
夕方、娘と一緒に自転車で習い事へ向かう。終わるのを待つ間、近くのカフェに入った。コーヒーを一杯頼んで席に座る。
隣のテーブルから、おばちゃん二人が旦那の悪口を言っているのが聞こえた。二つのグラスの氷はほとんど溶け、テーブルにはいくつも水の輪ができていた。コーヒーをひと口飲み、カップをテーブルの端に置いた。その横に、白いご飯と、さっき作った南蛮漬けを並べる。南蛮漬けを箸でひと口。続けて、白いご飯をひと口。
ダメだ。
そうだった。
これでは、白いご飯が進まない。
娘も食べない。
箸を置いた。
隣では、旦那の悪口がまだ続いていた。残りのコーヒーを飲み、席を立った。
習い事を終えた娘を迎えに行き、帰りにもう一度スーパーへ寄った。人にぶつからないよう気をつけながら、娘と一緒に店の一番奥まで進んだ。
お惣菜はすっかり出揃い、売り場の棚はぎゅうぎゅうだった。唐揚げコーナーに直行し、金色のシールが貼られたパックを一つ、かごに入れた。その隣から、もう一つ。値札は、もう見なかった。そのままレジへ向かう。レジの前には長い列ができていた。私はその最後尾に並んだ。